昭和46年07月01日 朝の御理解
御理解 第25節
「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」
これは私の願いであります。合楽の方達の理想郷でもあります。「梅の香りを桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたい」これが私の願いです。私の願いであるということは皆さんも矢張りそういう願いをもって大きうなられる。いやもう自分は梅の花だけで良い。自分はこういう性格がぱっとした性格じゃからもう桜のごとある、おかげさえ頂けば良かというようなこと云うては矢張りいけません。
成程大きなおかげを頂く華やかなおかげを頂く、桜の花のような華やかなおかげを頂く。その内容として信心辛抱、梅の花がと言われるのですから、本当に辛抱強い。自分に梅の花の欠げとると思うたら梅の花の信心、辛抱強い信心を本気で修行させてもらわなければならん。自分に素直さが欠けておると思うたら、本気で柳のような素直さを身に付けていかなければならない。素直さ辛抱、そして桜の花が一時に咲いたかと思われる程しのおかげに育って行かなければならん。「たろうて」行く。
私は昨日の交通安全、悪疫予防の祈願祭を奉仕させて頂いて、まあいつもの事ながら思うのです。まあ信心も出来ませんのにこの様なおかげを頂いて、しかもあれこれ何とはなしに「たろうて」あれが足らん、これが困る、お供え物は立派だけれどもお参りが少ないと言った様な事でなくて、本当に四方八方、「たろうた」おかげの中に昨日の祈願祭が奉仕されました。
昨日はある教会の信者さん方が、見えましてここの部屋をまあ二、三見られてから、もう行き届いた事だと、いわゆる「たろうた」おかげがね頂けておるというのは、私にその様なたろうた、信心が出来ておるからと言う事じゃないけれども、願いがいつもそこに置かれておるからだと思う。偏見であってはならない。しかもね、そのおかげがですいよいよ育っていく、いよいよその育っていく印が、表わしていけれるという信心に、まあ情熱を賭けておる。
信心は大きな信心が良いと云われても初めから大きな信心、大きな事ばかりいうとったちゃ駄目なんである。やはり小さいところからしかも「たろうて」育っていく。しかも大きないよいよ大きな信心にならして頂きますと、迷い信心ではいかんと仰るが、迷わんで済むおかげが受けられる。そういう信心を頂かせて頂きたいと私は一心と定めなければいけないと思う。
それが天地乃親神様の氏子にかける願いであり、生神金光大神取次の道というのは、そういうおかげを頂くことを金光大神お取次下さって、そういうおかげを願って下さる。所謂親の願いである。その親の願いを私どもが受けて立たせてもろうて、それを成就させて行こうと云う願い、いよいよ大きな信心を頂こうと、そこでまあ結論ですけども、結論を申しますならです結局はどう言う事かというとね、最近私がいっとります一切合切がおかげとして受けていく稽古なのです。
だから大きうならん筈がない。一切合切がおかげ、もう絶対大きうなりますよ。もう勿論迷いが起ろう筈がありません。昨日お祭りを奉仕するちょっと前に手紙が来とる。本部からの手紙ですがね。こんなに部厚い手紙で、この私に是非見て頂きたいと大体西岡さん宛に来ておる。私に見てくれというて、どういう関係のことか分らんと思うてお祭り前に読ませて頂いてそしたらね、こう言う様なものが出てきた。
矢張り末永さんと一緒に修行しておる御本部で、しておる学院生らしい何処かの教会の息子に違いない。昭和23年7月18日生れ、授産名俊男と書いて「しゅんお」と平仮名で仮名遣いをしてある。三代金光様の御筆ですよね。いわゆる昭和23年に7月18日に生れておる。ところがですどういうわけに金光様は、普通で読むなら「としお」と読まなければならないものを、わざわざ「しゅんお」と読みにくく何故「しゅんお」と呼べとお書き下げ下さったかという意味が、20何年間それが疑問の種である。
誰にきいてもわからん。それでわざわざ自分の親教会であるお父さんにいうて、これを送ってもらってきたらしいです。そして合楽にこうして大坪という先生がおるからこの御神意を伺うて貰いたいというのがその願いであったらしい。どういうわけに金光様は「しゅんお」等という名前を下さったのか分らない。御神意のあることであろうけれどもさあそこがわからない。
私はこの手紙を読ませて頂いて、お父さんがこの手紙を送っとられる手紙を読ませて頂いて本当に感動した。もう子供を思う切々たるその願いが書いてある。読んでみましょう。「拝復と書いてあるからこれに対する返事でしょうきっと、そしてこういう家の宝のような宝物を手紙に送っておられる。これは御神米が二体入っておりますね。二体下げてある。それは昭和23年、20何年前のこと、この様にキチッとして毎朝拝みよんなさるでしょうきっと。
それを学院に行っとる息子が送ってくれというから大切にして送られたわけなんです。そして、拝復、願いにより御神米同封申し上げます。どうぞ大切におかげを受けて下さい。昭和23年に生れて、23年の今年これからの23年を加えると父の現在と2年越すことになる。今日という日を大切に大切にどうぞおかげを頂いて、身壮健人と対立せず、吾の至らぬを知って人を軽く思わず、人尊きが故に己もまた大事にせねばならんのところ常に道ありてこそ共に平和と繁栄が生まれる。
生神金光大神お取次成就を祈り奉る。生神金光大神お取次成就を祈り奉る。切に切に、父。としてあります。6月23日俊男様「しゅんお」とあります。いわゆる親先生であるお父さんが本当に金光大神お取次の道の成就と言う言がいうならばお前にかけられておるんだぞと、その為にはこう言う事に心掛けねばならないぞ注意しなければならないぞと、それこそ最後に切に切にと書いてあります。それで私昨日てんやわんやの時でしたから、夕べはちょっと頂き過ぎて休ませて頂いてから夜中過ぎてから思い出してからここに起きて参りました。
それからこの言をお取次させて頂いてから改めて頂いた。そしたらねこういう事を頂くのです7、8、9、10と頂きました。ななやここの、とんおとそして次にですね7、8、9、10と頂きました。同じ7、8、9、10でも読みようでは、ななや、ここのとんおと言う事になります。だから例えば「しゅん」という字を俊トシと読んでも俊シュンと読んでも同じだけれども、わざわざなぜ俊トシを俊シュンと読ませなさったかというと、すぐれると頂きました。俊と云う字をすぐれると頂きました。
「とし」ではすぐれるにはならない「しゅん」と書いてすぐれるのだ。そこですぐれた取次者としてすぐれた先生になってくれと云う金光大神の願い、又は天地乃親神様の願いが、俊男シュンとあるわけが分りました。俊男トシオさんじゃ親の願いは込められない。俊男シュンオと書いてはじめてです、すぐれておる。それはまあ言い換えていうならばです7ヒチ8ハチ9クウ10ジュウと読んでも良いのだと。
けれどもわざわざ、なな、や、ここの、とんおと読ませてある所にです神の願いがあるのだ。その願いがどこにあるかというと、どうぞ優れた取次者としておかげを頂いてくれよという、三代金光様の願いがここにある訳です。私はそれを頂いてはじめてそれを本当に感激いたしました。これは誰しにもそうでありましょうけれども、とりわけお道の教師しかもその子弟として生れた者に対する神様の願いというものがね、しかもその願いが私の子供達が皆なお道の教師を子供の時から志望いたしております。
幹三郎なんかは、僕は信心はするけどお道の教師は嫌だといっておったけれども、あぁいう大病を境に高校を自分から中退させて頂いて、もう専念お道の教師として生涯お取り立てて頂きたいという願いに燃えて現在修行しておる。というそれはね、矢張り神様の願いであり金光様の願いなのです。だから願いがその様な形をとって幹三郎の場合はそのように成就しつつあるわけです。
この福原という将来お道の教師にならる俊男さんもです、三代金光様のそういう願いがかけられておる。そこでです俊男さん自身がひとつ本気で大きな信心を願わなければいけないというわけであります。だから大きなおかげを頂く大きな教会を建立しよう、沢山の信者が参ってくるように一つ頑張ろうと云うたり思ったりしておることが大きな信心じゃない。それこそ実意丁寧をもってです、小さいところからお父さまのここの願いが、ここに書いてありましたですね。
人と対立するような事があってはならないとか、人を軽う見てはならないとか、それ故にまた自分自身も尊重して行かなければならないとかと言う様な切々たる親心をここに書いとられます。だから私はここに本当に俊男さんがです、大先生を目指そうと言う様なものではなくて、本気で自分自身を見極めさせてもらい分らして貰い小さいところからたろうた信心の稽古を本気でなさることになればです。
それこそ梅と桜と柳とをこきまぜた様な信心。しかもその信心の内容というのは、一切合切を有難く受けて行こうという姿勢、一切合切を神様の御働きでありそれを神愛として受けていけれる信心をですなさって育って行くならばです、必ず金光様の御期待に添えるようなです、どうぞ神様の願いに添い奉られる金光様の願いに添い奉れる取次者にならして下さい教師にならして下さいと願うだけではいけん。
願うからにはです、そういう信心、いわゆる大きな信心を目指さなければいけないという事になるわけです。成程大きな信心には、迷いは起りようがない。起りませんよね。先程私が結論を先に申しましたように、一切合切を有難く受けて行こう。そこに限りないおかげの頂かれる道が開けてくる。もう二十年も前の話、私の紋付のおかげを頂きたい紋付のおかげを頂きたいというた人が紋付のお供えをなさった。
ところが私の紋ではない。梅鉢の、私のは梅鉢ですからその輪がない。所謂現在のこの紋なんです。天満宮さんの紋なんです。これは紋が違うとるけれどもお供えだから、神様に御供えさせて頂いたらこれからは私にはこの紋をつけろと頂いた。それ以来小さい輪がそれに枠があっては太られない。だからこの枠を取りのぞけ限りなく大きくなって行けるぞと。以来私が着けさせて頂く奉仕着も、紋付のすべてがこの紋になってしまった訳です。これは神様がね、どうぞ大きくなってくれとの願いなのです。
それではです私がね、大坪総一郎という枠があったんでは大きうなられない。だからおかげでもこういうおかげなんてと自分で決めるようなおかげではつまらん。神様はどういう大きなおかげ下さろうとしとられるかも知れん。それにどうぞ一万円下さいてん何てんけちな願いしてはならん。それこそ億万の金を神様は下さろうとしてるかも知れんのですから、自分で小さい信心ではいけない。勿論自分自身の所謂枠を取ると言う事は、まあ我を取れと言う事でしょう。
いうなら大坪総一郎むなしうなれと言う事でしょう。いわゆる限りなきこの梅鉢がです、大きうなって九州中に広がり、お道全体に広がり、世界のすみずみにまで大きくなっていけれる可能性があるわけです。私のこの紋はだから私はそこんところを願いとしております。只自分が小さい計画どん立ててから、そしてそれが成就したらもうおかげ頂いた。それこそ神様の本当のおかげというのは、願いが願い通りになったおかげは本当なものじゃないと仰る。
願うても願うても右と願えば左となり左と願えば右というときこそ、本当は天地乃親神様の大きなおかげを下さろうとする下ごしらえがあっておる時だと。ですからおかげと云うものはそれこそ夢にも思わなかった様なおかげじゃなからなければ本当のおかげじゃないと、私は教えて頂いております。どうぞ一つお互いがね、大きな信心を目指さなければいけません。というて一ぺんで大きな信心が出来る筈はありません。矢張り育っていくのですから。
今日からはいよいよ又、夏期信行の第一日目であります。一時の御祈念に合わせてそれこそ熱気あふれる様な御祈念会とでも申しましょうか。そういう修行が出来ることであろうかと思います。向こう一ヵ月間、本気で一つ修行させて頂きたい。その修行の焦点が今朝頂きます大きな信心を頂かせて頂くことの為の修行であらなければならないと思います。今朝頂きます御理解をいとしての私は一ヵ月間のおかげを頂きたい。今月の信心の焦点は、和楽と頂いとります。平和の和、和賀心の和。楽、合楽の楽。
いよいよ私は一切合切をおかげとして受けていけれる信心、そこに和楽があるのです。どうしてとか困ったとか云うことが無くなってくるおかげ。信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかん。一心と定めいと。私どもは今日頂きます御理解のところに焦点をおいて一心と定めて、いよいよ大きな信心にお育てを頂き、そして夢にも思わなかった程しの大きなおかげを目指さしてもらい頂かしてもろうて、神様の願いに応えまつって行かなければならんと思います。
どうぞ。